―― 手を捕まれたのは突然だった。
取ろうとしたお銚子が土方の着物の袂にぶつかり中身が机の上にぶちまかれる。
見上げればすっかり酔っぱらった感のある昔馴染みの精悍な顔。
頬を捕まれゆっくりと畳に押し倒された。
何をと言いかけた薄い唇は男の唇にかき消された。
「Anthropophobia」
昔、まだ沖田が十にもならない時の事だった。
傾いた近藤の道場を助ける為土方が働きに出ると言いだした事がある。
その時は土方も まだ十四になったばかりである。もちろん世に出ればそれくらいで働いている子供はたくさんいたが過保護な近藤はそれを良しとしなかった。
「総悟もおまえもそんな心配をしなくて良い」
やるなら家の事をしてくれと言う近藤に土方がおとなしく言いなりになるわけがない。無理に近藤を説得し土方が獲得したのは商家で算盤を扱う仕事だった。
最初はしぶっていた近藤も定期的に入る収入に文句を言い続けることはできなかった。学もない根無し草のような浪人たちが取れる仕事などタカがしれている。その点まだまだ幼いながらも金になる仕事を獲得できた土方は十分に近藤たちの役に立っていたといえる。
貧乏ながらも近藤や浪人たち、沖田と共に過ごす毎日は早くに親兄弟を亡くした土方にとってとても充実した日々だった。仕事から帰れば皆で一日の事を話し合い手合わせを行う。天人との攻防で廃刀令の噂が囁かれてはいてもそれはどこか遠い世界の事だった。…ずっと、こんな平和が続くのだと幼い土方は信じて疑わなかった。
だが、そこで あの「事件」は起こったのだ。
その日も沖田は一人古い道場で皆の帰りを待っていた。夕方になれば兄貴分である土方が菓子を土産に帰ってくる。それを待ちわびる事で少しの寂しさはまぎれていた。
だが、待てど暮らせど土方は戻ってこなかった。外はすでに薄闇に紛れまだまだ子供と言って良い土方が出歩くには危険な時間だった。仕事がおしているのか、はたまた何かあったのかと思い沖田は近くを探そうと玄関を飛び出した。
’――土方さん…’
だが、探すまでもなかった。藍染めの着付けを夕闇に溶け込ませた土方は入り口の前で立ちつくしていた。
いつもは生気に満ちあふれた瞳はぼんやりと焦点が合わないまま宙をさまよっている。手には土産の菓子ではなく脇に下げられているはずの刀…それは古ぼけた提灯の明かりの元でどす黒く光っていた。
’土方さん、土方さん!’
提灯が地面に落ち燃えた事にも気づかなかった。一層明るくなったせいで見えたのは明らかに暴行を受けたと分かる青いアザ。着崩れた着付けの間から覗くすんなりとした足を伝うのは赤と白が混じりあった濁った滴だった。
’…近藤さんには…言うな’
自分の胸元までしかない小さな体がしがみつくとようやく土方はそれだけを言った。年端もいかない沖田だって土方の身に起こった事を理解したのだ。それは無理な事だろうとは思ったが沖田は頷いた。
結局その日は皆が帰ってくる前に手当をすませ、土方はかたくなに喧嘩に巻き込まれたのだと主張した。すっかり大人の連中がどこまでを察したのかは分からないが土方がそれ以上問い詰められることはなかった。
後日、近隣で騒ぎになっていた暴行殺人事件の犯人が半死半生の姿で捕まったとかいうニュースが報道された。結局侍崩れの犯人を返りうちにした人物は分からず終いだった。切り口からしてなかなかに腕の立つ侍らしいという事だったから仲間割れか別の事件に巻き込まれたかということでその事件は終わった。
しかし、その後も土方の苦しみは終わらなかった。毎夜のようにうなされてロクに睡眠も取れないような日が続いた。顔色の悪さを心配して手を伸ばす大人たちの手を怖がるようになったのだ。
「土方さん? 大丈夫ですかぃ?」
「ああ…大丈夫だ。大丈夫…」
唯一触れても平気だった沖田はよく背伸びをして土方を抱きしめた。薄々事情を悟っていたらしい近藤は自分の部屋に沖田と土方を寝かせた。毎晩うなされ飛び起きる土方をなだめ、怖がらせないように頭を撫でて再び寝かしつけるという毎日がどれだけ続いただろうか…しだいに落ち着きを取り戻した土方は元の生活が送れるようになった。今までよりもさらに鍛錬の時間を増やし道場内でも対抗できるのは近藤のみという強さまで上り詰めた。年よりも小さかった背もぐんぐんと伸び始め男らしい顔立ちになると町の女たちが放っては置かなかった。
そうして少年はすっかり男の顔になり、今では真選組の鬼副長と呼ばれるまでになった。薄い瞳孔の開きかけた冷たい目で睨まれた敵は土方に触れる前に倒された。
…もう、彼に手を出せるものは誰一人としていないはずだったのだ。
…だが、今だ土方の胸の奥底には
闇が潜んでいた――