――覚えているのはむせかえる血の匂いと冷えきった人間の体の重みだった。
幼い頃に亡くした父母の代わりに親代わりとなった姉はいつも笑顔を絶やさない優しい女だった。自分一人ならばまともな職でも生きていけただろうに…こんなひねくれきった俺の面倒を見るため夜の茶屋で働いていた。
…似合わない深紅の口紅、ただでさえ白い肌をおしろいで覆いつくした姿は下衆の格好の餌食となった。毎日続くあられもない矯声や隠しきれない情事の跡を見るたびに俺は自分の無力を呪いたくなった。早く大人になりたい、強くなりたいと毎日隠れて竹刀を振っては侍嫌いの姉に怒られるという生活が続いていた。
そんな毎日が終わりを告げようとしたのはイチョウ並木がすっかり色を変えたころだった。
姉の客の中に、穏やかな青年の姿が現れるようになったのだ。うれしそうに頬を染めながら男の名を話す姉を見て、俺はここから離れる決意をした。自分さえいなければ、姉は元の陽を見られる生活に戻れると思ったからだ。
姉をよろしくと頼みに行った俺にあの男は職の手配をしてくれた。少し遠いが良い所だといわれて向かった先は裏道にある水茶屋…男が男の相手をする影間茶屋とよばれる場所だった。
茫然と立ちすくむ俺を見て店主は下卑な顔を向けた。奴に「売られた」のだと気づくのに時間がかかったのは俺がまだまだガキだった証だろう。屈強な男たちの手から抜け出して何とか逃げ帰った俺が見たものはさらに俺をどん底に突き落とす現実だった。
「十…四…郎」
真っ赤な血の池から聞きなれた声が響いてくる。身内ながらも綺麗だと思っていた姉の体からは止めど無く深紅があふれていた。
『ねえちゃん!』
『よかっ…無事…』
かけ寄った俺の顔を撫でながら姉はゆったりと微笑んだ。
あたりを見回してみれば無残に荒らされた形跡がある。物取りかと脳裏をかすめつつも俺の中にはある一つの答えが浮かんでいた。
『ねえちゃん…奴は?』
『…ゴメン…ごめんねぇ…トシ』
案の定奴の名を口に出せば苦し気に眉を寄せられる。騙された、のだ。俺たち姉弟は。優しい顔で近づいて金を巻き上げる最低最悪な糞野郎に。もう姉が金ヅルではなくなったのを理解した奴は物取りに見せかけて姉を切り捨てたのだ…邪魔になるであろう俺の身柄代までもせしめて。
『トシに…渡したいものが…あるの』
『っしゃべんな! 今医者を呼ぶから!』
冷えていく姉の体に俺は震えた。この世でたった一人の身内なのだ。俺を産んですぐに亡くなった母親よりもずっと母親らしい大好きな姉…命の灯火が消えていくのを俺は黙って見ていられるわけがなかった。
『部屋の下…父さんの形見が…あるの。大事に…』
『っねぇちゃん! ねえちゃーん!!』
部屋を飛び出そうとした俺の手を握りかえした姉はそこまで言って息を引き取った。…真っ白な顔にどこまでも鮮やかな深紅は一生忘れることはないだろう。
その後、姉の言葉通り部屋の床を見てみれば、ひと振りの刀と手紙、そしてわずかばかりの金子が見つかった。長く使われなかったはずなのに、一点の曇りもない刃先は姉が隠れて手入れをしていたのだということを教えてくれた。
「…しえいかん…?」
刀と共に保管されていた手紙には綺麗な姉の筆跡で何かあったら『士英館の近藤』を頼れという文字がしたたまれていた。父が生前懇意にしていた男らしい。
「道場…か…」
抜き身の刃先に映った自分の顔を見ながら俺はある決意をした。
…強く…なりたい。
もう二度と大事な人を失わないだけの強さを手にいれたい…と。