「トシ兄も近藤さんの事好きですよね?」
かわいらしく小首を傾げた総悟に応と答えた十四郎は次に渡された書類を見て茶を噴き出した。
『雪幻華5』
「…総悟が帰ってこない?」
日も落ちかけた夕暮れの事。出稽古に出かけていた近藤は慌てふためいて辺りを捜索する居候たちに泣きつかれた。
「昼過ぎに一度帰ってきたんだがよ、なんかトシ坊と喧嘩したらしくて飛び出していっちまったんだ」
すでに心当たりを探しまくったのだろう、あちこちを泥まみれにしながらそう言ったのは永倉だった。
「町の方へも行ってみたんだが見つかんねぇんだわ。トシ坊もトシ坊でなんか怒ってて放っておけっていうし。何とかしてくれよ近藤さん」
「怒ってる? トシが?」
台所を指す永倉に近藤は目を瞬かせる。総悟がへそを曲げるのはいつもの事だが十四郎まですねるとは一体何があったのだろうか。
「めずらしいな。あの子が怒るなんて」
「だろ? 俺もどうしたんだって聞いたんだが般若みたいな顔してうるせぇ!だぜ? よほどの事があったんだろうなぁ」
その時の顔を思い出したのだろうか、永倉は困ったように苦笑いを浮かべた。
「分かった。トシの方は俺が聞いておくから総悟の方頼むわ。ま、腹が減ったら帰ってくるとは思うけどな」
了解とばかりに手を振って草履を引っ掛けた永倉を
見送った近藤は夕餉の支度をしているのであろう十四郎の元へ向かった。立てつけの悪い戸を引き開ければ案の上無言で鍋をかき混ぜる細い背中が目に入る。
「トーシ? おかえりのあいさつは?」
「…『オカエリナサイ』」
冗談めかして声をかけてみれば不機嫌極まりない声で返される。いつもならば不愛想ながらも人の顔を見てくれるのだがこちらをまったく見ようともしない様はよほど怒っているのだろうということを伝えてくれた。
「総悟と喧嘩したって? お前が本気になるなんてめずらしいな」
相手は子供だろう?と笑って言えば途端にぎろりと睨みつけられた。ただでさえ眼つきの悪い十四郎がそんな表情をするとさらに迫力は満点で、なるほど永倉がビビッたわけだと近藤は内心で苦笑いを浮かべる。
「どうした? 総悟がなにかしでかしたのか?」
「別に。大したことじゃねえよ」
話を続ける気はないのだろうか、ぷいとそっぽを向いた十四郎は夕餉の支度を再開した。だが、包丁ではなく手でにぎりつぶされた豆腐が鍋に落ちていく様を見せられて近藤はらちがあかないとばかりに十四郎の手を取った。
「近藤さん?」
「ああもう。怒らない怒らない」
ぎょっと目を見開いた十四郎の頭をぐりぐりと撫でさすれば真っ赤なゆでダコのような顔で抵抗される。すねた時はこうやって無理にでもコミュニケーションをとらなければこの大人びた子供は口を割ろうとしないのだ。
「ほら、何があったのかおにーさんに聞かせてみろって。な?」
「べ、べつに何も…」
「トーシ?」
さらにしらばっくれる十四郎の両肩を掴みじいっと目を見つめ返す。すると案の定その視線に耐えきれなくなった十四郎は勘弁とばかりに懐から一枚の書類を取り出した。憎々しげに突き付けられたそれを手に取った近藤は大きく書かれた「婚姻届」の文字に唖然とする。
「ったくワケわかんねぇよ。息切らせて帰って来たかと思ったら急にこれ突き出してサインしろだぜ? ざけんなってゲンコツくれてやったら「もう良い」っつって家飛びだしちまったんだよ」
「これを…あの子が?」
すっかり皺くちゃになったそれを見下ろしながら近藤は目を瞬かせる。まだ結婚の意味すらも分かっていなさそうな子供がわざわざこんなものを持ってくるなど一体どうしたというのだろうか。
「これを書けって? トシに?」
「ああ! しかもこっちに書けって言うんだぜ? 悪ふざけも大概にしろってんだよ」
そういって十四郎が指したのは本来妻となる者が署名をする欄だった。すっかりクチャクチャになって見えにくいが微かに鉛筆で書かれた名は十四郎と…近藤の名だった。
「…ええと。これはトシを俺の嫁にしろって事かな?」
冗談まじりに口にしたらさらに十四郎の頬が朱に染まった。どうやらまだ総悟との喧嘩でなにか一悶着があったらしい。
「俺は別にトシが嫁に来てくれるってんならいくらでも書くぜ? …まあ、受理させるされないは別としてな」
「近藤さん!」
冗談はやめろと牙を剥く十四郎の頭をポンポンと叩いた近藤は手近にあった椅子に腰かけた。
「総悟がもってきたんだよな。これを」
「あ? ああ。朝は確か雪の所に遊びに行くって言ってたが」
まじまじと書類を見る近藤に怒りの矛先をそらされて十四郎は苦虫を噛み潰したように答えた。
「大方雪とままごとでもして結婚の話にでもなったんだろ。ったくガキのくせにマセやがって」
「うーん、そうかなぁ? だったら旦那の欄に自分の名を書くだろう」
とにかく座れと隣の椅子を引き出されて十四郎はしぶしぶ横に腰かけた。
「俺はむしろ親がほしくなったんだと思うぞ。父ちゃん母ちゃんと呼べる存在がな」
「あ…」
そこまで言われてやっと十四郎は気づいた。総悟はすでに父母と呼べる者を亡くしているのだ。
「…そうか…」
いつもは憎らしいくらいに落ち着き払った総悟だが、あれでもまだ八つになったばかりなのだ。十四郎にはまだ姉がいたが総悟は身寄りと呼べるものが全くいない。友達の親を見てうらやましいと思うのは当然の事かもしれない。
「良い事じゃねえが。それだけ俺らを慕ってくれてるって事だろう? だったらかわいい息子のために一肌脱いでやろうじゃないか」
「おいおい。いくらなんでもできる事とできない事があるだろう」
一瞬ほろりとほだされかけた十四郎だが、嬉々として書類に署名を始めた近藤に眉を寄せる。前から親馬鹿の気があるとは思ってはいたがさすがにこれは行き過ぎだろう。
「俺は嫌だぜ。大体野郎同士で名を書いたって受理されるわけー…」
「まあまあ。良いからここにサイン頼むって」
冗談じゃないと立ち上がった十四郎の手を掴み近藤は片手で拝んだ。その強引なおねだりの様はどこか先ほどの総悟にかぶるよなぁ…なんてどこかぼんやりと考えていた十四郎は期待に満ちた目の近藤に乗せられしぶしぶと筆を取ったのである。
「ほら。総悟」
そう言って近藤は小さな手の中に婚姻届の紙を握らせた。
結局総悟が道場に戻ったのはすっかりあたりが暗くなってからだった。すねて空き地の土管の中で昼寝していたのを永倉が見つけ出したらしい。門限を破った罪として尻を叩いてやったから今夜は仰向けで寝ることはできないだろう。
「他にも入籍届を書いておいたぞ。これでお前も「近藤総悟」だ」
「近藤…総悟?」
だが、叩かれたわりには総悟の表情が明るいのは渡された書類の存在がよほど嬉しかったのだろう。近藤の名の横に書かれた自分の名は正式に総悟が近藤の子供になることを証明していた。
「…良いんですかい? 父ちゃんと呼んでも?」
「ああ。もちろんだ。それにトシもかあちゃ…っふぐっ!! か、かか母ちゃんでもな」
期待に満ちた目で近藤を見上げれば忙しそうに顔を白黒させている。隣に座った十四郎がちゃぶ台の下で近藤の腹に一撃を決めたのだが目の前の書類に気を取られている総悟には気づかれなかったらしい。
「へへっ 近藤総悟か」
ふわりと浮かべた笑顔は本当に嬉しそうで、さらに拳を突き出そうとしていた十四郎は気まずそうに手を下した。一緒に暮らし始めて半年が経つが、そんな子供らしい表情をした総悟を見るのは初めての事だったのだ。
「あーでもな、総悟? 一つお前に言っておかなくちゃならない事があるんだ」
「え?」
腹を押さえつつも平静を保った近藤は今にも書類を提出しに行こうとする総悟を何とか押しとどめた。
「確かにこれを持っていけばトシもお前も俺の家族になる。…けどな、今はまだダメなんだ」
「ダメ? 何で?」
言いにくそうに言葉を詰まらせる近藤に総悟は納得がいかないと頬を膨らませる。これがあれば家族として認められる…幼い総悟の頭にはその事しかないのだ。だから近藤は総悟が分かりやすいようにと一からじっくりと諭したのである。
「祝言ってのはいろいろ決まりがあるんだよ。旦那は18歳以上、お嫁さんは16歳以上ってな。トシはまだ14だろう? だからまだダメなんだ」
「ああ!?」
そう言われて総悟は目を剥いた。そういえば書類をもらうとき職員が笑いながら18歳になったらおいでと言っていた。その時はわけが分からず「近藤さんにあげるんでぃ」と啖呵を切ったのだがそれはそういう意味だったのか。
「えー、じゃあトシ兄は母ちゃんになれないんですかぃ?」
「んーまあ、今はそうなるなぁ…」
途端に気落ちした総悟の頭を撫でた近藤はなだめるように小さな体を抱きしめた。
「そう落ち込むなって。あと二年、トシが16になったら一緒に書類出しに行ってやるから。な?」
「ちぇー」
「おい、ちょっと待…」
聞き捨てならないセリフに眉を寄せた十四郎は文句を言おうと口を開いた。だが、素早く伸ばされた近藤の手によって総悟もろとも広い胸にとらわれてしまった。
「いいだろ? こんなもんが無くたって俺たちは家族なんだから。お前とトシがいりゃ俺は大満足だぞ」
「…俺は大いに不満だが…」
胸元にすがりついてくる総悟を抱きとめながら十四郎は深いため息をついた。自分だって男なのだから結婚は18歳からだし、何より男同士なんだから結婚はできないのだと総悟に教えるべきなのではないかという意見は近藤の「子供の夢を壊しちゃいけねえな」の一言で却下された。どうせあと数年もすれば総悟だってこんな事があったという事を忘れているだろう。これで満足するならとしぶしぶ承諾したは良いがかわいい声で「母ちゃん」と呼ばれると心臓がむずむずして居心地が悪いったらない。
「さあて。丸く収まった事だし飯にしようか。母ちゃんのお手製ハンバーグが待ってるぞ」
「わあい。母ちゃんのハンバーグ大好きですぜぃ!」
調子に乗って母ちゃんを連呼する近藤と総悟を睨みながら十四郎は拳を握った。
…いつか、総悟が大きくなって笑い話になった時は近藤の顔に一撃きめてやろう、と。
だが、十年後。棚の奥から書類を見つけ出した総悟は笑い話にするどころか本気で役所に届けてしまったということは…まだこの時点では予想もつかない十四郎だった。