ONE AND ONLY  … for NATUME




――遠くで、小さな子供が泣いている。

誰だろうと目をやれば、それが昔の自分だという事に気づく。見るからに貧弱なガキだ。足元からは靴が失われ泥のついた靴下が半ば脱げかけて留まっている。

『…ああ、また妖に追い掛けられたか』

このあとの出来事も覚えている。公園のトンネルの中で身を潜めていた自分を見つけるのは同じクラスになったガキ大将。変わった言動をする力無い子供だった俺は彼の恰好の餌食となった。

『いつも変な事いいやがって。俺がオキヨメしてやるよ』

そういって川の水をかけられることはしょっちゅうで、昨日などは榊の枝で叩かれた。毎日のように服を汚してくる自分に、今の保護者は当然嫌みばかりを言ってくる。――昨夜は、またどこかの誰かと電話口で自分の事を話していた。おそらく又別の親戚に押し付けられるのだろう。

――だが、今日は違った。真っ暗な闇から引き上げてくれたのは大きな安心できる腕。びっくりして目を瞬かせれば、そこにいるのは優しい笑みを湛えた漆黒の髪の青年だった。

「…田沼…?」

そこで目を覚ました夏目は、本当に頭を撫でられていた事に気づく。小さな豆電球の明かりに浮かび上がるのは見知った影。迷いもなく名を呼べば優しい声で安否を気遣われる。

「まだ横になっていろ。顔色が悪い」
「…ああ…おれ、また…」

たしか帰りがけに名の返還を求められたのだ。一見弱々しい感じの妖だから油断した。気力を使い果たしフラフラな所を襲われ、あわや友人帳を奪われる所だった。
ーーむろんそいつは用心棒を豪語する斑によって完膚なきまでに叩きのめされたはずだ。いつもなら夏目が気づくまで先生が寄り添ってくれているはずなのに…

「…田沼…ここ…」

そこまで考えて、夏目は自分が見覚えのある部屋に寝かされていることに気づく。天井の隅に幻影を写すここは、田沼の自室だったはずだ。

「ああ、おれの家。顔色悪かったからこっちの方がいいかと思って」

案の定、田沼からはそんな答えが返ってくる。今の保護者である塔子や滋に心配をかけさせないようにしてくれたのだろう。

「すまない。迷惑かけた」
「いいや。気にするな」

柔らかな口調に優しい手。その心地よさに再び眠気が襲ってくる。何か食べるかと聞かれたがこの手を離したくなくて首を振る。

「…なんだよ。にやけてんな」

まるでガキみたいだと思いながら目を開けると、微かに笑みをこぼす田沼がいる。急に恥ずかしくなって声を尖らせるがすべてを悟っているらしい彼は何も言わずに髪を撫で続けてくれた。

「起こして悪かったな。明日は学校も休みだろう。ゆっくり眠るといい」

だが、古時計の音が響いた所で田沼はそっと手を離してしまった。立ち上がり部屋を出て行こうとする彼に夏目は目をむける。何故出ていってしまうのか。ここは田沼の部屋なのに。

「おやすみ、夏目」

柔らかだが否を言わせない田沼の声に、夏目もおやすみと言う他ない。ぱたんと襖が閉められれば静寂が辺りを包む。急に体が冷えたようでぶるりと身を震わせた。

「…なんだよ。恰好悪い」

それが人淋しくなったからだとは認めたくなくて夏目は布団を被った。昔の夢を見たからつい子供がえりをおこしてしまっただけだ。高校生にもなって一人が淋しいなどどうかしている。

「そうだ。別に、一人でも…っ!」
「淋しいんだろ?」

ぽつりと呟いた所で、夏目は胸に衝撃を感じた。…そう、例えるなら肉布団がずっしりとのしかかってくるような感覚だ。

「っ! 先生!」

慌てて布団を剥がせばコロンと転がる丸々とした物体。招き猫を依代としたニャンコ先生が不気味な顔で夏目を見つめていた。

「せっかく気を利かせてやったというのに。あのガキもだらしのない」
「はぁ? 何の話しだよ」

よじよじと夏目の膝に乗り上げた先生はふわぁ、とあくびをして丸くなった。元は陶器とはいえ、今はふかふかの毛に覆われた先生の体は温かい。戻った温かさが嬉しくて夏目はその体を抱きしめた。

「一体どこに行ってたんだよ。」

白く抱き心地の良い体からは微かに酒の匂いがする。人が倒れているというのに一人酒盛りに行った先生を攻めるべく眉をつりあげるが、当の先生はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべたままだ。

「田沼が送ると言ったんだ。邪魔がいたら困るだろう」
「邪魔って…なんだよそれ?」

わけがわからず首を傾げるが、先生は答えてはくれなかった。夏目の顔を凝視したかと思えば丸い肉球でぷにぷにと眦をつつかれる。

「情けない顔をして。また夢をみたのか?」
「…まあ、な」

まるで本物の猫のように鼻面をすりよせた先生は夏目の身を案じるように喉を鳴らす。

「一人が嫌なら田沼に頼めば良いだろう。一緒にいろと言えばあいつ喜んで同衾してくれるぞ」
「どっ…て、なんだよそれ」

また妙なことを言い出す先生に夏目はため息をつく。

「何度も言うけど、俺男だぞ。レイコさんと混同するなよ」

自分と祖母、レイコは余程似ているのだろう。この辺りの妖怪たちは皆口を揃えて自分の事を「レイコ」と呼ぶ。つい最近もヒノエにあちこち触りまくられたのだ。貧弱だという自覚はあるが、女扱いされるのは勘弁してもらいたい。

「それにそんな事田沼に言うなよ。あいつが気を悪くする」
「ばかめ。何もわかっとらんのか」

窘めるように言えば、先生はにやにやと笑いながら爆弾を投下してくれたのだ。

「あいつ、ずっと前からおまえに惚れているんだぞ。そろそろ気づいてやれ」
「!?」

突然ふられた突拍子もない言葉。さも当たり前といった口調のそれに、夏目はぽかんと口を開ける。

「…うそだろ?」
「失敬な!本当の事だぞ」

信じられなくてそうつぶやけば、丸い肉球で膝を叩かれた。

「私が人間の心を読む事ができるというのは知ってるだろうが。今更なにを言っておる」
「いや、それはそうだけど」

確かに先生がそんな能力を持っているのは知っている。何も言わなくても側にいて欲しいときはいてくれるし、不器用ながらも慰めてくれることもある。…だが、まさか田沼がそんな思いを持っているとは。

「しかもお前だって同じだろうが」
「っ!」

おまけに自分の想いまで突き付けられては堪らない。息をのんだまま硬直する夏目に先生はしてやったりとほくそ笑んだ。

「いいことを教えてやろうか、夏目」
「え…」

自分の役目は済んだとばかりに夏目の膝から下りた先生は外へと続く障子を開けた。

「たしかに先程の妖を倒したのは私だがな。他の妖怪からおまえを守ったのは田沼、あいつだぞ」
「え…」

「さすが坊主の息子というべきか。本人は倒れているおまえを見つけて駆け寄ってきただけだったが…そこにいた中級妖怪数体を簡単に跳ね飛ばしたんだ」
「田沼が…?」

今までそんなそぶりも見せなかった田沼の力に夏目は目をみはる。確かに田沼の父は見えないながらも強力な力を持つ能力者だ。修業次第によっては田沼だって目覚ましい開花を遂げるに違いない。

「ま、まだまだ父親の力には遠く及ばんがな」

だが、先生の評価はまだまだ及第点とはほど遠いらしい。

「奴はずっと、おまえの力になりたいと思っていたんだ。素直に甘えてやれ。その方があいつも喜ぶ」

クフフ、と嫌らしい笑いを残して、先生はさっさと外へ飛び出してしまった。外は妖が多く棲む八ツ原の森だ。どうせあの酒豪は森で酒盛りに乱入するのだろう。…まったく、人事だと思っていい加減な奴である。

「…甘えろ…か」

田沼が消えた方向を見ながら夏目はため息をつく。

―――頼っても、良いのだろうか? 我が儘を言っても笑って許してくれるだろうか…?

戸惑いを隠せないまま夏目は立ち上がった。この襖を開ければ田沼がいる。きっと声をかければ心配して起きてきてくれるだろう。

「――田沼?」
「夏目?」

案の上声をかければすぐに障子が引き開けられる。少し驚いたような顔で見下ろされ、夏目は途端に恥ずかしくなった。

「頼みが…あるんだ」

ええい、ままよとばかりに投げ出された手を掴む。そういえば、自分からこんな行動を起こしたのは初めてだ。いつも人の機嫌を伺い、嫌われないようにと我を隠す事ばかりしていた。

「…一緒に…寝てほしいんだ」
「っ!」

途端に強張る田沼の体。みればその顔は真っ赤で自分が大変誤解をうける言い回しをしてしまったことに気づく。

「あ、いや! 違うんだ! その…」

昔の夢を見るのだと、慌てて言い直す。眠るまでで良いのでしばらく一緒にいてくれないかと尋ねれば優しい指が夏目の眦に触れる。そこは先程先生も触れた所だ。戸惑い気味に拭われて自分が涙ぐんでいたことに今更ながらに気がついた。

「…ごめん、田沼が嫌なら…」
「――良いよ」

恥ずかしさのあまり離れようとすれば、強い力で戻される。招かれたのは温かな腕の中。ぽんぽんと背を撫でる手が気持ち良くて夏目は目を閉じる。

「もっと甘えてくれよ。俺に出来ることならしてやりたいんだ」

優しく響く、心地良い声。先生を抱きしめた時とは明らかに違う安堵感に疲れ切った体は急速に眠りへの道を歩み始めた。

「…ゆっくり眠りな。起きるまで一緒にいるから」

布団に寝かされて頭を撫でられる。もう目を開けることもできなくて、おやすみと呟いた。それに答えてくれる「おやすみ」という声にくすぐったさを感じながら夏目の意識は闇に埋もれていった。

―――握り返してくれる優しい手。

きっと、もう悪い夢を見ることはないだろう。

 



夏目視線です。本人に告白する前にばらされちゃう田沼さん。









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