「お正月にアルバイトをしないか?」と声をかけてきたのは幾分疲れた顔をした田沼だった。
「年末から三が日にかけてうちも大忙しでさ。雑用が主なんだけど、変な人には頼めなくて」
今も準備で大変なのだろう、田沼の目元にはうっすらとクマが浮いている。こんな片田舎の…しかもしばらく無人と化していたボロ寺(失礼)でも正月はかき入れどきなのだろう。毎年この時期は逃げ出したくなると力なく笑う田沼に思わず夏目は首を縦に振ったのだった。
「――で? これは?」
大晦日。約束通り手伝いに向かった夏目の前には真新しい着付け袴が用意されていた。
「確かに制服って言えば制服だけどさ…」
目の前には申し訳なさそうに立つ田沼の姿。本人もつい先程気がついたのだという夏目の着物は艶やかな朱色の袴だった。
「ごめん、杉原さんに頼んでおいたんだけどどこかで間違ったみたいで」
杉原とは寺の檀家の一人だ。連れ合いを亡くした肝っ玉母ちゃんで父子である田沼親子は公私共に随分世話になっているらしい。以前夏目も泊まりに来た際に会ったことがあるが、大きな体に見合った豪快な女性だという印象が残っている。
「ほら、一応赤は赤だけど落ち着いてるからきっと似合うと思うぞ」
「……」
八つ当たりよろしく、じろりと睨み上げてやれば慰めにもならない言葉が返される。確かによくある明るい色ではないから男が…というか自分が着てもなんら違和感はないだろう。というか寧ろこれを着こなして地元住民の目にさらされる方が嫌なのである。
「…俺もそっちが良いんだけど」
羨ましそうに田沼をみやれば、困ったように頬をかかれた。落ち着いた色合いの袴は凛々しくていつもより大人っぽく見える。やはり家庭の事情柄着物には慣れ親しんでいるのだろう、ぴしりと乱れなく着こなす姿は学校の女子が見たら悲鳴ものだろう。
「うーん…俺のじゃサイズが…あ、いや」
暗に背の違いを指摘され夏目は口を尖らせる。慌てて口ごもった田沼はごまかすように「着せてやるから」と言って夏目を自室へと招き入れた。
「…あ…」
いつもの事ながら田沼の部屋はきちんと片付けられている。…というよりも散らかる物がないのだと気がついたのはいつの事だったろうか。その殺風景な部屋の中で唯一の彩りを見つけ夏目はふと口元を緩める。
「ああ…池か」
夏目の視線に気がついた田沼は障子を引き上げた。そこにあるのは夏目にしか見えない鯉の泳ぐ池。澄んだ水の中を優雅に泳ぐ魚はキラキラと日の光を反射してこの世の物とは思えないほど綺麗だった。
「今日はどんなのが見える? 黒か?」
「いや、両方だ。赤いのと黒いのが寄り添うようにして泳いでる」
隠す必要のない相手を前にして、夏目は素直に見たままを口にする。現と幻の両方を見る事ができる夏目は己の目で見たものが他人にどう写っているのかが分からない。だからいつも相手に合わせ曖昧な笑みで言葉を濁すのだ。
だが、田沼に関しては違う。能力の差はあれど人ざる物を見るのは二人とも同じ。我慢することはないのだと…素直になって良いのだと夏目は暖かな腕を手に入れて思い知った。
「夏目…」
ふわりと柔らかな笑みを湛えながら池を眺めていると横から声をかけられた。その声に促されるようにして見上げれば、同じく口元に笑みを浮かべた田沼がそっと夏目の肩に手を置いた。
「…たぬ…」
その手がやんわりと首元を固定する。段々と近づいてくる田沼の意図を察して目を閉じた。時をおかずして唇に触れたのは柔らかな感触だ。温もりを分け合うかのような優しい口づけに夏目の体から力が抜けて行く。
「…田沼…仕事は…」
「もう少しくらい平気だって」
そのまま勢いに流されそうになった夏目は無駄と知りつつもそう尋ねてみた。そういえばここ最近の忙しさのせいで二人きりになったのは随分前の事だ。一度こうして触れてしまえば今まで離れていられたのが不思議なほど互いの熱を渇望してしまう。
「…ん…」
キスを受けたまま夏目はシャツのボタンに手をかけた田沼を手伝うよう体を傾けた。微かに香るのは田沼の着物に焚きしめられた香の匂いだろうか。うっすらと目を開けて見ればいつもとは印象の違う田沼の顔が見える。学校の女生徒だけではない、着物姿の田沼に意識を奪われたのは夏目も同じだった。
「田沼…」
香の香りに酔ったのか、夏目の意識は朦朧としている。いつもは照れが先に来るはずなのに、押し出された声は田沼を誘うように掠れていた。
「夏目…」
その媚態に誘われた田沼も緊張を隠しきれない様子で熱い息を零した。今まで他人を避けてきた二人がようやく手に入れたかけがいのない相手。不器用な彼等の恋は始まったばかりなのだ。
「好きだよ、夏目」
震える手を宥めながら全てのボタンを外し終えた時だった。その細い肩からシャツが滑り落ちようとした瞬間、廊下からけたたましい足音が響いてきた。
「ごめんなさーい! 遅れましたぁぁ!」
叫び声と共にバーンと扉が押し開かれた。見れば肩で息をしたタキが小脇に風呂敷包みを抱えたまま立っていた。
「ああ、まだ大丈夫? 本当にごめんね」
まだ夏目の着替えが終わっていなかった事に安堵したタキは手渡されて来たのだろう、自分の分の着物を床に置いた。…そういえば、おみくじ売場に華がほしいと言われタキにもアルバイトを頼んでいたことを思い出す。
「道の途中でにゃんこちゃん見つけちゃってぇ…て、どうしたの?」
固まったままの田沼と夏目はやっとわれに返って慌てて離れた。夏目の前はすっかり開けていたが着付けの最中だったためタキは不審には思わなかったのだろう。着替えはどうしたら良いのかしらと首を傾げた彼女に田沼は隣の部屋を指差した。着替えの頼める女性を呼んでくるからと立ち上がった田沼の足取りは誰がみてもふらふらと怪しいものだった。
「どうしたのかな? なんか疲れてるみたい」
「…そうだな。準備が忙しかったみたいだし」
不思議そうに尋ねるタキとは裏腹に夏目は深いため息を噛み殺した。…何故だろうか。いつも二人が良い雰囲気になりかけると邪魔が入るような気がする。
『まさかとは思うけど…先生の呪いとか』
今日も出店目当てで連れていけとごねた先生を自室に閉じ込めてきたのだ。あの不気味顔のにゃんこなら本当にやりかねないと夏目は本気で呪いの存在を疑った。
『お参り…しておこうかな』
すっかり冷えてしまった体を震わせながら夏目は遠くに見える社殿に向かって頭を垂れたのだった。
今回は珍しく夏目さんの方が積極的です(当社比)
寺の息子がいるのなら、巫女ネタは外せないと思いまして。
相変らずの寸止めカップル。きっと夏目は人目を忍んでお参りに行くのでしょう。
お守りは縁結びか悪霊避けか・・・どっちを買うか悩むに違いない。